戦時中、満州で人体実験をおこなっていたという噂のある関東軍防疫給水部本部、通称七三一部隊。そこで働いていた軍医将校らの学位取り消しを求める声が一部の左翼系学者の間から上がっているという。どうやら学者たちは、七三一部隊が人体実験を行っていたといういまだ真偽の明らかでない「風説」を事実であると決めつけた上で、それを糾弾していくつもりらしい。
七三一部隊が本当に人体実験を行っていたかどうかは戦後、資料の多くがアメリカ軍によって秘匿されてしまったため現在、研究も議論も満足にできない状態にある。したがってその真偽についてはいまもって霧の中である。もちろん、戦後の闇に葬られた真実をあきらかにすることは重要な作業であり、真実を追究することそれ自体に異論をさしはさむつもりは毛頭ない。
しかしここで注意しなければならないのは、それがたんなる歴史問題ではなくなってしまっていることだ。歴史問題という範疇をはるかに逸脱して政治的、外交的な問題になってしまっていることだ。
なぜそのようなことになってしまったのか? そこに、政治的なプロパガンダが複雑な形でからまっているからだ。
そもそもこの問題を考えるさい、忘れてならない大前提がある。それは人体実験を行ったのはなにも日本ばかりではないということだ。人体実験というのは日本やナチスなど枢軸国の専売特許ではない。連合国もまた同じことを過去に行っていたし、そして一部はいまもなお行っているのだ。
たとえばアメリカの例でいえば、有名なものにタスキーギ梅毒実験というのがある。これは1932年から1972年にかけてアラバマ州のタスキーギで貧困層の黒人性病患者400人が人体実験の対象として未治療のまま放置された事件である。またハワイ王国時代には、死刑囚に対してハンセン病菌を投与する人体実験が行われたことがある。さらに日本への原爆投下の際、意図的に治療を施さず、経過を観察したことも人体実験だったのではないかという疑念の声が近年高まっている。
さらにまた、今の中国で行われている臓器移植などはたんに利益を目的としているという意味で、まがりなりにも科学的研究を目的とした人体実験以上にたちの悪い凶悪犯罪といえるだろう。
したがって、七三一部隊を糾弾するのであれば、同時にタスキーギ梅毒実験や中国の臓器移植などについても糾弾すべきであろう。社会的な公平を期するのであれば、そうするのが当然だし、それが正義というものであるはずだ。
ところが、こうした旧連合国が行った、あるいは今現在行っている人体実験を指摘すると、なぜか途端に反発の声が上がってくる。「他人が同じことをしたからといってあなたの罪が免除されるわけではない」という反論だ。アメリカがタスキーギ梅毒実験を行ったからといって、また中国が臓器移植を行っているからといって、七三一部隊の罪が消えるわけではないという主張である。
当然である。というよりそんなことは言われずともわかっている。だが、よく考えれば誰でもわかるようにここにはあきらかな詭弁が含まれている。ここにあるのは、「われわれは『アメリカ』や『中国』のそれではなく『日本』の罪だけを糾弾したいのだ」というきわめて政治的に偏った正義である。
これは歴史問題にかこつけた日本への政治的非難である。ここでは歴史という純粋に学問的な領域における問題がいつのまか政治的な領域の問題にすりかえられてしまっている。これはもはやたんなる歴史学上の問題ではない。政治的なプロパガンダの構造にからめとられ、学問としての独立性を失った歴史問題もどきであり、もっとはっきりいえば反日プロパガンダ以外のなにものでもない。
このことは学校などでの集団いじめにたとえるとよりわかりやすいかもしれない。
ここでは日本はいじめられっ子である。いじめているのは、アメリカと中国、韓国である。そうして日本クンは「昔、あれをした、これをした」と昔のことを蒸し返されてはいまもなおいじめを受け続けているという状況にある。場合によっては学級委員会などもいじめっ子側とつるんで日本クン非難の決議を出したりもしている。
しかし、ここで問題になるのは、いじめっ子であるアメリカ、中国、韓国もまた人にいえないような悪事を行った過去があることだ。しかも日本クンへの非難はその多くがえん罪であり、ひどいのになるとその悪事をそっくりそのまま日本クンがやったことにしてそ知らぬふりをしているいじめっ子もいる。
そうして、たまりかねた日本クンが「おまえらだって同じようなことをやっただろ!」と反論しようものなら、とたんに「他人が同じことをしたからといってキミの罪が免除されるわけではないだろ」というしかつめらしい声がどこからともなく聞こえて来る。そうしていつのまにか学級全体がその声に同調してしまうのだ。
かくして日本クンだけが悪者に仕立て上げられ、同じことをやったはず、やっているはずのアメリカクンと中国クン、韓国クンはどういうわけかおとがめなしとなってしまうのである。
今現在日本をとりまく反日プロパガンダの構図は、まさにこれと同じである。ここにあるのは、誰もが当事者であるはずの「普遍的な」問題を取り上げたはずなのに、いじめられっ子だけがいっそういじめの対象となり、いじめっ子は無罪放免になるという構図である。この歪んだ構図の中ではそんな不公平がまかり通ってしまうのである。
もしあなたが、公平と正義を尊ぶのであれば、そしてこのような集団いじめに加担したくないというのであれば、いったいどうすべきなのであろうか? わかりきったことである。同じ悪行を裁くのであれば、いじめられっ子のそればかりでなく、いじめっ子のそれをも平等に裁くということである。
しかし問題は、七三一部隊をはじめ日本を対象とした歴史問題の多くがこうした反日プロパガンダの構造の中にすでに密接に組み込まれてしまっていることである。そうである以上、七三一部隊を糾弾することはその必然的な帰結として日本だけが「排他的に悪玉」にされてしまうことになる。いかに普遍的な正義を装ったとしても、アメリカや中国、韓国の悪事に関してはまるでそんなものなどなかったかのようにスルーされ、日本のそれだけが世界を震撼させた例外的な凶悪事件ででもあるかのような印象をまとい一人歩きしてしまうのだ。
ここに立ち現れてくるのは、歴史という範疇を逸脱した過剰に政治的な日本非難である。そこには次のようなメッセージが隠されている。「日本は第二次世界大戦で悪者だった。その悪の帝国を打ち破ったわれわれ旧連合国は正義の側に立っていた。それゆえわれわれには政治的な正統性がある」とーー。こうして日本の悪辣ぶりが強調されるのに反比例して旧連合国の正義が強調され、その結果、現体制の正統性も再確認されることになるのだ。
これは、体制が不安定な国にとっては利用価値の高い政治的道具である。これを持ち出すだけで体制の安定化がはかれるのだから、体制側にとってこれほど便利な道具もないであろう。そのためこうした歴史問題を装った政治的プロパガンダはその国の政治的都合によってその都度何度も繰り返し、表に出てくることになる。「慰安婦」「南京虐殺」「徴用工」「バターン死の行進」などはまさにそうした政治的道具である。このような戦前の日本にまつわる歴史問題が出て来た時、私たちは注意深くあらねばならない。それが学問の皮をかぶった政治的なプロパガンダである可能性が高いからだ。日本やドイツを悪玉化することで、自分たちの立ち位置を正当化しようとする一部の国々による政治的な「戦争」はいまもなお続いているのだ。
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