吉田松陰の『幽囚録』の中にこのような一節があります。

宜しく蝦夷を開墾して、諸侯を封建し、間に乘じて加摸察加カムチャッカ隩都加オホーツクを奪ちとり、琉球を諭し朝覲會同し比して内諸侯とし、朝鮮を責め、質を納め貢を奉る、古いにしえの盛時の如くし、北は滿州の地を割り、南は台灣・呂宋ルソン諸島を牧し、漸に進取の勢を示すべし。

反日左翼はこれをもってあたかも大日本帝国がその誕生時から侵略のDNAを内包していたかのようにあげつらいますが、私はそうは思いません。

当時は食うか食われるかの帝国主義の時代です。松陰は、食われないためにはそうすべきと主張しただけであり、それは今から考えても至極もっともな主張だと思います。むしろ明治維新後、すぐにそうすべきだったかもしれません。

というのも、日本が早くから周辺地域に確固とした砦を築き、いわゆる「持てる国」となっていたならば、ロシアをはじめとする西洋列強による東アジア地域への野心は、断念させるまではいかずともある程度牽制することができたはずだからです。

逆にそうしないでいたからこそ、「持たざる国」としてその足元を見られ、結果として、大東亜戦争という悲惨な結果を招いてしまったのではないでしょうか。少なくとも私はそのように考えています。

実際、この文には続きがあります。

然る後に民を愛し士を養い、守邊を愼みて、固く則ち善く國を保つと謂うべし。然らずんば、群夷爭聚の中に坐し、能く足を擧げ手を搖らして國の替(すたれ)ざる無き者は、其れ幾(あやう)き與かな。

これをみてもわかるように松陰は危機に瀕した国際情勢の中で日本国の安泰を図るための現実的な方策を記しただけであり、すくなくとも、みだりに周辺諸国を侵略し、西洋人がそうしたように日本人がその主人としてふんぞりかえることを善しとしたわけではありません。そしてそれが慧眼だったからこそ、後の大東亜共栄圏構想として現実のものになっただけの話であり、それをもって大日本帝国にもとから侵略の野心があったなどと断じるのは飛躍のしすぎであり、早計にすぎるといえるでしょう。

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