中国広州の花県という村にこんな話が伝わっている。

日中戦争がはじまってまもなくの1938年、日本軍が広州を占領した時のことだ。ある日、「洪秀全の子孫」だと称する矢崎某という日本人将校がやってきて村人の前でこう布告した。

「先に皇軍の一部隊が洪秀全一族の宗祠を破壊したことに対して陳謝する。今後、皇軍がこの村に立ち入ることを禁止し、一切の労役や食料の提供を免除する」と。

そして洪姓の長老たちを招いて酒をふるまった上、千元の軍票を与えたという。

この話が本当であればそれはそれでもちろん面白いが、実際には日本軍による現地民に対する宣撫工作の一環であったことは間違いないだろう。

と同時にここからいえるのは、これだけ宣撫工作に熱心だった日本軍がいたずらに人心を離反させる「南京大虐殺」などを引き起こす理由は千に一つもない、ということだ。

こういうと「南京虐殺への反省からそうしたんだ」などという阿呆が必ず出てくるが、宣撫工作というのは組織的な諜報活動である。それには人材育成や組織を横断した連携など相当長期間にわたる経験値の集積が不可欠である。半年やそこらの付け焼き刃的な準備で可能になるようなものではないのだ。

それを裏付けるようにこの村には30年代の始めにも似たようなことがあったと伝えられている。

こちらはこんな話だ。

一九三〇年代のはじめ、村に一人の日本人がひょっこり現れた。男は広州の日本領事館に勤務する矢野某と名乗ったのだが、驚いたのはその後である。

なんとその男、「自分は日本に逃げのびた洪秀全一族の後裔だ」と主張したのだ。もちろん村人は最初そのうさんくさい男を誰一人信じようとはしなかった。

ところが、「父の話によると村の塾の前に一対の獅子の石像を埋めておいたそうだ」と男がいうので半信半疑ながらためしに掘ってみたところ、なんと実際にみつかったという。そして村人はその男を信じるようになったというのだ。

もちろんこれも満州事変後の情勢を背景にした日本軍による手の込んだ宣撫工作とみて間違いないだろう。このように日本軍は早くから戦争における宣撫工作の重要性を認識し、実行に移していたのである。

占領地において皇威を輝かすことに神経質なまでにこだわっていた日本軍が、よりによって首都南京において無辜の市民30万人を無差別に虐殺するよう組織的な命令を下すなどありえないことはこうしたエピソードからもわかるであろう。

 

ソース↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%A7%80%E5%85%A8

 

https://china-redtour.com/doc_taihei/

追記

日本軍が満州事変直後になぜ太平天国の指導者洪秀全を引っ張り出してきたのか、といえば、太平天国が清朝を妖魔と称し、そこからの独立を主張していたからであろう。満洲族と敵対した太平天国と洪秀全の歴史を思い出させることで、満洲は本来異民族の地であり、そこで発生した満州事変は漢民族とは無関係であることを一般の中国人の心の中に印象付けようとしたのであろう。

また天王洪秀全が日本に落ち延びたという可能性はもちろんほとんど考えられないが、配下の諸王やその子孫が日本に逃げ延びたというならありえない話ではないだろう。実際、今手元にソースがないので示せないが、以前、中国系のメディアで太平天国の幹部の子孫が香港に落ち延びた上、辛亥革命の際、「大明(だったか大漢だったか?)なんとか大将軍」とかいう仰々しい肩書きで孫文らとともに決起しようとしたという記事を見たことがある。香港まで落ち延びたのなら、そのうち一人ぐらい日本まで渡ってきていたとしてもおかしくないだろう。もしかしたら今現在、翼王石達開や英王陳玉成の子孫がこの日本のどこかで、しかも本人自身もその来歴を知らずに平々凡々たる暮らしを送っているのかもしれない

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